2010年3月23日火曜日

国からの脱出と帰国子女

古代ローマの平民は王侯貴族の暴政に対してローマ市を出ることで抗議の意を示した。しかし、今日同様のことを行うのは難しい。たとえできたとしても、異国 の地で生計を立てるのは容易ではないし、異なる言語、文化、風俗慣習の壁は常に付きまとう。その点で、海外での生活に慣れている帰国子女は有利である。帰 国子女は沈没船ニッポンと運命を共にする必要はないし、そうならない能力も有している(?)のだ。
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この頃就活を意識し始め、鬱になるような記事ばかり見てきたので、せめてもの慰めとしてこれを書いてみました。

でも、まあ危機こそチャンス!と言われることおあるし、まずはできる限り日本で頑張ってみようと思います。

もちろん、異国の地で生活するなんて帰国子女であっても容易ではないのでしょうが、第2の故郷があるという感覚はやはり安心できます。

先日台湾から帰ってきてそう感じました。

学費の節約とお金の使い道

国立大学の学費は私学のそれに比べれば安い(年約54万円)。しかし、自活している私にとっては大きな負担であることにかわりはない。そんな私にとって、 以下のニュースは朗報である。授業料を免除してもらえれば、節約したアルバイト代は貯金にまわせる。そして、いずれは貯めたお金で日本を回ってみたいと考 えている。
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まあ、まずは大学周辺を征服することから始めようかなw

愛国心と愛郷心

日本の愛国者は、「国」(郷土)としての日本を愛しているのか、あるいは「国家」(政府)としての日本を愛しているのか。たぶん、ほとんどの場合は前者だ ろう。だが、往々にして両者は混同される。私たちが国家に服従し、貢献し、犠牲を払うのは、それが郷土を守る手段であるからであり、その目的に反する国家 の命令に従う必要はないのだ。このことを忘れてはならない。

割に合わない法曹志願

私は法曹になりたい。しかし、最近「リスクが高すぎるのでは」と感じている。仮に18歳で大学に入学し、22歳で卒業したとしよう。そこから法科大学院に 進学して24歳で卒業するまではいいが、もし3回連続で司法試験に失敗すれば(5年間で3回しか受けられない)、立派な27歳の司法浪人が誕生してしま う。新卒至上主義の日本では負け組確定である。
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でもね~、私裁判官になりたいんですよ。罪を犯した人は有罪で罰し、無実の人は救済する。「正義」って痺れますよね~。

まあ、それはともかくとしても、法曹以外に興味をある業界なんて今のところないしね。

日本の厳しい労働環境から逃避するなら外資系企業かもしれないけど、20代後半、しかもずっと勉強しかしてこなかったような人間を採用してくれるとは考え にくいし。

あとは今流行り(?)の「海外脱出」か。自分なら台湾で生活するとかならやってけそうだ。

ともかく、法曹の夢が破れた時に備えて退路を残しておくことは必要でしょう。そのためには、今のうちから情報収集なり、いろんなことを体験するなり、やっ ておくべきでしょう。

2回生になって就活や自分の将来のキャリアとか考えるようになったこの頃です。

ヘッドスライディング・アピール

日本の高校野球選手は一塁上でヘッドスライディングを行う。明らかに間に合わない場合でもそうだ。たしかにヘッドスライディングしたほうが駆け抜けるより は若干速い。しかし、その分怪我をする確率も高くなる。それでもヘッドスライディングをするのは、仲間や観客に自分の一生懸命さをアピールしたいからなの かもしれない。
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では、なぜ危険を冒してまで一生懸命さを周囲に示したがるのか?もしかしたら、「こんなに頑張ってる(ふりしてる)んだから、もし失敗しても許してちょ」 というある意味積極的な自己防衛手段なのかもしれない。アリバイ作りとも言えるだろう。そして日本の世間はそれを容認し、評価し、ときにはそれを強制す る。「一生懸命やる姿」に一種の美学を見出しているのかもしれない。怪我をしてまで一塁を狙おうとした選手は悲劇の英雄を演じ、観客はそれに涙するのであ る。

もちろん、怪我してまで一塁をとるのか、あるいは無理せず次の打席でホームランを狙うのか、どちらが長期的には効率的であるかはいうまでもない。

そして、生産効率性が再重視される今日、情緒的な日本人はより理性的な欧米人・他のアジア人に競り負けるのである。

そんなに日本人が演劇好きで豊富な感性を持っているのなら、ビジネスではなく、音楽芸術文学で世界を席巻しましょうよ。オタク文化とか、ギャルゲーとか、 ラノベとか、まさに良い具体例でしょ。あ、もしかして私、日本の未来見つけちゃったかもw

では、文化立国ニッポンばんざい!

言論の自由とその責任

台湾では、どの新聞記事にも取材・執筆を行った記者の名前が明記されている。一方、日本では、記者の名前を見かけることはめったにない。そのため、記事に 問題があったとき、その責任は新聞社全体へと分化され、結局だれも責任をとらないという事態になってしまっている。言論の自由とは本来それに付随する義務 (責任)を負うことで初めて認められるはずなのだ。

大学生の政界進出を促す台湾

先月、台湾の主要野党である民進党が「大学卒業生に故郷で村里長になってもらおうキャンペーン」を発表した。今年6月に行われる村長・里長選挙に立候補す る大学卒業生に対して、民進党が資金、教育訓練、人手を提供しようというものである。地方政治に対する若者の積極的参加を促す観点から、この試みは大いに 評価できるだろう。
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正確には、民進党の一地方支部が行っているキャンペーンです。全国的に広まるかどうかはまだ分かりません。

村・里はそれぞれ台湾の最小行政単位です。感覚的には数百人程度からなるコミュニティーかな。それくらいの行政単位なら大学卒業生の能力でも勤まりそうで す。

また、村長・里長のポストは台湾全土で何千とあり、全国的に大学生が担うことになれば一種の失業対策にもなりそうです。給料もわりといいみたいですし。

日本でもこういう試みがあっていい気がするのですが…

軽犯罪法の濫用とその対策

軽犯罪法の条文を読むと、おおよそ犯罪とは想像もつかない行為が刑罰の対象とされていることがわかる。ニート(!?)(第1条4号)、乞食(同22号)、 立ち〇〇〇(同26号)がその例だ。条文の表現が抽象的なため、別件逮捕の手段として警察に濫用されることが多い。これを防ぐには、条文の表現をより具体 的にするか、法律を撤廃して対象とされる行為を犯罪視しない(非犯罪化)といった方法が考えられる。
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軽犯罪法第1条4号:「生計の途がないのに、働く能力がありながら職業に就く意思を有せず、且つ、一定の住居を持たない者で諸方をうろついたもの」

→これって、ニートはタイホ!ってことですよね?

なんか東京で予備校に通ってた頃、2回ほどサツにカバンを漁られたことを思い出しました。私ってそんなにあやしい人に見えるんですかね?警察権力に盾突く 大物政治家でもない私のような小市民相手に時間を費やすくらいなら、本物の犯罪者を逮捕しろよ!と言いたくなります。

あ、もしかして、単に権力を誇示したいだけなのかな?オレってすごくね、みたいな感じで。

なんか、警察になってもいいかな~と思えてしまいました。警察になれば不祥事など起こさない限り逮捕されないし、何より他人を逮捕できる。銃も打ち放題だ し。巨大な警察官僚組織も守ってくれるし。

あ、でも検察のほうが上か。よーし、検察になってガンガンみんなを別件逮捕してやるぜ!ウォーーー!!(燃)

「日本切腹、中国介錯論」

先日『それでも、日本人は「戦争」を選んだ』(加藤陽子著)を読んだ。この本自体なかなかおもしろかったが、何より印象に残ったのはこの本の中で1935 年(日中戦争前夜)に中国の外交官胡適が提唱したとされる「日本切腹、中国介錯論」だ。要するに中国が日本に勝つには、日本軍を中国本土で釘づけにしてソ 連やアメリカの介入を促すべきだと主張したものである。その卓見とネーミングセンスに脱帽。

中国の乞食と失業問題

最近、中国では「犀利哥」と呼ばれる乞食がネットで話題となっている。というのも、この乞食、その服装やタバコを吸いながら歩く姿がとてもワイルドでカッ コいいのだ。だが、その一方で、彼を美化すればするほど、彼を含めた何百万という失業者の存在は忘れ去られてしまっている。この潮流が一時的なものである ことを祈る。
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…残念なことですが、このように乞食を美化する潮流はまだしばらく続きそうです。今度はソーダを飲む姿がワイルドな乞食「雪碧哥」が発掘されましたw
 

Renaissance man(博識家)

‘Renaissance man’とは、多様な分野や事柄において高度な知識を持っている人物のことを指す。たとえば、レオナルド・ダ・ヴィンチは芸術家であると同時に科学者であ り、土木建築や文学などにも優れていた。だが、あらゆる学問分野で深化と細分化が進む今日、彼のような万能な博識家が出現することはあまりないだろう。現 代とは一点に特化した専門家たちの時代なのである。

台湾の「外発的」ナショナリズム

台湾の国旗国歌は日本のそれらと同様に、一部の国民からその正統性を疑われている。しかし、国際政治的理由により代替案を提唱することができないでいる。 そのため、中国のナショナリズムに圧迫されるたびに本来批判すべき国旗国歌(ナショナリズム)を持ち出して対抗しなければならない羽目に陥っている。外圧 が「歪んだ(?)」ナショナリズムを生んでいるのだ。

「富不過三代(富は三代続かず)」を斬る!

「富は三代続かず」という諺がある。これは初代が創り、二代目が蓄積した財産が、三代目の無駄遣いによって水の泡と化してしまうことを指している。しか し、もし三代目の「無駄遣い」が学問や道楽へと向けられたものであるのならば、それは「無駄遣い」とはいいがたい。なぜなら、三代目は財産の代わりに得た 学問や道楽で身を立て、新たな初代になることができるからだ。
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さて、かくいう私もまさにこの「三代目」に相当するのですが、果たして新たな初代になれるのかな?

ちなみに私はこんな感じです;

初代:事業に成功、小金持ちになる→二代目:サラリーマン、それなりにオーケー→三代目(私):海外への留学+日本への帰国と受験勉強+大学生活=すっか らかん

なので、私を誘拐しても身代金は出ませんのであしからずw。

まあ、冗談はともかくとして、最初に述べたように、果たして私は新しい初代になれるのでしょうか?ちょっと考えてみました:

代償:多額の$
得たもの:海外での滞在経験、3ヶ国語、大学生活
→内約:海外での滞在経験→なんの役に立つか今のところ分かりません~
3ヶ国語→まあ、一応アピールポイント?それ以前にESとか面接対策とかできないといけないのでしょうが
大学生活→パンキョーの知識→ナンパに使えるかすら疑わしい
法学の知識→法曹になれなきゃ意味が無い!
人脈→そんなモンあるの?
その他経験→???

結論:自分が新しい初代になる可能性を高めるには、残りの大学生活を有意義に過ごさないといけない。

やってやるぜ!

ps:とはいえ、新たな初代になり損ねた者は多いようです。まあ、消費によって経済活動促進に貢献してるからいいけどね~

戦争肯定論批判

戦争で国が負けて国土が焼け野原になれば、貧しい者も富める者と同じスタートラインに立つことができる、という主張がある。これは戦争を生き延びることを 前提としているが、実際のところ貧困者は平時から軍隊に入らないと生活できない状況にある(例:アメリカ)。このため、戦争で真っ先に死に追いやられるの は彼らであり、戦争によって社会的平等が実現されるとはいいがたい。社会的問題は戦争ではなく、平時における政策で是正するのが王道である。

台湾の交通事情と自力救済

車社会化が進む台湾では、歩行者の利益が十分に保護されていない。都市部の多くはいまだに歩道が整備されていないし、たとえ横断歩道が青信号になっても車 は遠慮なく突っ込んでくる。しかも、運転手の多くは任意保険に加入していない。このような状況下で出歩く台湾人は、常に前後左右の状況に細心の注意を払 う。自分の身は自分で守らないといけないのだ。
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約半年ぶりに台湾に戻ってきていますが、やっぱり台湾は危ないッス。首都台北でも歩道の半分は見事に原付の違法駐車で占領されてるし。その歩道を原付が 走ってくるし。

運転するにしても大変です。教習で習ったように間隔をあけていた日には他の車や原付が詰め込んでくるし。赤信号でも、行けるときは行かないと追突される し。

台湾では原付は日本のチャリと同じ地位にあるのですが、道路上を走るそれはドライバーにとっちゃ危なくでしょうがない。

まあ、どれも慣れますけどね。人間の適応力は恐ろしい・・・

情報の制限と書籍

今日、私たちはインターネットを介することで、世界中の情報にアクセスすることができる。しかし、現実にはその情報量があまりにも多く、そこからなんらか の原則を抽出して物事の判断に役立てるの難しい。そのため、私の場合、入ってくる情報量を制限するために書籍を用いる。主観的ではあるものの、まがいなり にも情報は整理化・体系化されているため、私としては使いやすいと感じるからだ。
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やっぱり、メディア・リテラシーなんてただの理想論ですよねw

もちろん、理想としては全ての情報を集めたうえで物事を判断すべきでしょうが。現実には情報はあまりにも多すぎるし、集めて分類する時間や気力も有限で す。結局のところ、ある一定のところで情報をカットし、一部を用いて残りは切り捨てなければならないでしょう。

しかし、そうなると、今度は自分が正しい判断したしたかどうか不安になるし、それ以前に決定を下しがたいでしょう。なんだかニヒリズム(虚無主義)を思い 出します。

結局のところ、それを根拠がないものと知りながら、何かを信じて突き進む(判断を下す)しかないのでしょうね。

異議申し立て制度への批判

成績評価に際して、私が通う大学では提出した答案やレポートは返却されず、ただその結果が知らされるのみである。そうした結果に対する異議申し立て制度は 一応整備されているものの、有効に機能しているとは言いがたい。なぜなら、いかにしてそのような評価に至ったのかを学生側は知ることができないので、異議 申し立てに際して有効な根拠を教授側に提示することができないからである。
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まあ、教授側としては、いちいち提出された答案やレポートを返却するのがめんどくさいんでしょうね(大変な作業だとは思いますが)。しかも、もし返却した ものに採点ミスとかがあったらさらにめんどくさい(点数つけなおさないといけないし、責任問われるし)。

まあ、学生側としても、一部の専門職や大学院へ行く場合を除いて、単位さえ取れれば成績などたいした問題ではないのでしょう。良い成績をとるに越したこと はありませんが、就職するにはようは卒業すればいいわけで。

だからこそこのような明らかに不合理と思われる制度が温存されるのでしょう。大学がどんなに悪かろうが、そんなのはお構いなしに私たち大学生は社会へと出 て行く(出て行かざるを得ない)のですから。

裁判員制度批判への回答

裁判員制度が施行されてもうすぐ1年になる。裁判に参加した一般市民からの評価はおおむね良好な一方、それに対する批判も依然根強い。多くの場合、批判者 は現行制度(の不備)が真実の追究や法の安定性を脅かすことを危惧している。しかし、肝心の当事者である市民が公正さよりも報復による被害者の感情回復を 優先するというのであれば、それはそれで何の問題もない。
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今日の独り言:

以上のように、極論を述べてみましたが、実際のところ裁判員制度は論点も多いし、なかなか評価し難いですよね。

とはいえ、自分も理想としては、裁判員制度を維持しつつ、不備を改善してより良い制度にすべきだと思います。まあ、あくまでただの理想論に過ぎませんが。

そういえば、法治主義って、民主主義と対立しますよね。後者は手続きが公正であれば良いとするのに対して、前者は結果の正当性も重視する。つまり、極論で 言えば、民主主義は多数決による無実の人間の殺害を容認するのに対し、法治主義は道徳や倫理云々に基づきそれを否定する。これを踏まえると、民主主義は手 続きのあり方という面においては科学主義的、功利主義的(感情を含まない)なのに対し、法治主義は道徳や倫理、そしてそれらを生み出す感情や価値観に根ざ したもの(人間臭い!)であるといえますよね。

無駄話はここまでにします。さて、上記に述べたように、素人である裁判員が裁判に参加することで、裁判が加害者への一方的な報復の場と化してしまう危険性 が、批判として前々から指摘されています。もしそれが事実でないのならなんら問題はありませんが、それが仮に事実であったとしても、それもなんら問題ない のではないかと、最近そう思い始めています。

というのも、例えそこから害が生じたとしても、それをこうむるのは、報復を容認した当の市民自身だからです(被害を受ける無辜の人にとってはたまったもん ではないでしょうが)。そうなって初めて人々は反省するだろうし、そこから裁判員制度を廃止するなり改正するなりすればよいのです。

もちろん、被害を受ける人は常に少数にとどまり、よっていつまでたっても改正の方向に向かわない危険性は存在します。そうなれば、少数者が被害をこうむる 構造が永久に温存されてしまいます。だからこそこのような状況の発生を事前に防ぐ(現段階における裁判員制度の廃止・改正)必要があります。これは、少数 者が害をこうむる状況を非とする価値観に基づいています。それが法治主義につながるわけですが、ここに法治主義が持つもう一つの側面、すなわち貴族(エ リート)主義やパターナリズムが表れているような気がします。

いろいろ脱線したり、論理性のない議論を展開しましたが、結局のところ、自分で冒頭に上げた主張を否定する結果になったようです。ww頭が混乱する~~

帰国子女の知識

帰国生は一般生から、滞在国について精通していると思われている。しかし実際のところ、あまりに長期間滞在するので、滞在国で見聞きした物事を次第に当た り前のものとして捉えてしまうようになり、帰国しても漠然とした印象しか抱いていないことが多い。そのため、滞在国のことについて突然聞かれると慌てふた めいてしまうのだ。
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まるで、海外へ旅行しに行った日本人が現地人から日本文化について聞かれて慌てふためくのと同じですよね。

とはいえ、これは私個人の体験談です。というのも、この私、台湾に8年間滞在したのにもかかわらず、その国の憲法や政治制度についてろくに知らず、帰国し て2年目になる今になって大慌てで関連書籍を漁るこの頃なのです。

なので、もし「私はあなたとは違うんです(キリッ)!」という人がいたら、どうぞお許しください。

いざというときの家族

大学生として外で下宿していると、時折実家の両親から電話が掛かってくる。私の近況を聞き、自堕落な生活を問い質してくるのだ。まったく煩いことこの上な い。しかし、いざ困難に直面したとき、私が真っ先に助けを求め、それに対して手を差し伸べてくれるのもまた彼らである。だから、「家族は大切だ」という主 張は、俗論ではあるが真理であるともいえよう。
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やっぱ家族って大切ですよね。「入っててよかった!~」と思えるような一種の保険的存在なのかもしれません。特に空気を読みあう「お友達」しか作れないよ うな今の時代にはなおさらのことでしょう。物理的にも助けてくれますし、心理面でも安心しますしね。今日から親孝行がんばります…というよりそれ以前に家 族をガンガン造りたいと思いませんか?

まあ、冗談はよしとして、私が上記で述べたような家族すら解体途上の今日、これから家族のあり方はどうなるんでしょうね。昔のような家制度復活なんて時代 錯誤としか言いようがないし、だからといって個々人のアトム化っていうのも理想論過ぎる。`No man is an island’ とも言いますしね。となると、ベターな選択としては、血縁によらない個々人の結合ということになりますが、一体どう実現すべきなのやら…悩ましいところで す。

大学で学ぶことの意義

大学に入学して早半年が過ぎた。そして僕は失望している。というのも、せっかく期待して入ったのに、大学で学ぶことで何かを得たという気がしないからだ。 僕が大学に期待していたのは単位でも資格でもなく、はては教授の狭い研究分野に関する自説や知識などでもない(もちろん、それらはそれなりに重要ではある が)。僕はただこの世界で生きるに際しての多様なものの見方を教えてもらいたかったのだ。

結局のところ、少なくともパンキョーはその力を自分に与えてくれそうにはない。もちろん、面白い授業はある、尊敬に値する先生もいる。しかし、それらを学 ぶことで将来それが自分にどう役に立つかがわからないし(もちろん、いつか役に立つときが来るかもしれないが)、何よりそれぞれの先生たちが狭い専門分野 を担当していて、それらを結びつける体系化された基礎的な授業が皆無に等しいので、諸学問の全体像がさっぱり見えてこないのだ。

もちろん、大学に入って無駄だったということではない。京都という新しい土地を発見したし、学生寮やサークルで友達も出来た。いろいろなことに挑戦した し、たくさん本を読んで勉強もした。こうしたことは将来社会に出てもきっと何らかの形で役に立つだろう。だが、それらは大学という環境・大学生という身分 を通じて獲得したものであり、大学に行くことの本来の目的(のはず)である学問を修めることで手に入れたものではない。

他の大学はわからないが、もし日本全国の大学がこのような感じだとすると、日本の大学は本当に残念だ。結局のところ、少なくとも日本では、大学生が本当に 世の中を生きるための学問を学びたいと欲するのならば、独学するしかないのだろう。そのことを僕は再確認させられた。大学に行くことに価値はあるだろう が、この世界を生きるのに必要な多様なものの考え方・見方を手に入れることにつながる学問を学ぶ場所としては無価値なのではないだろうか。

最高裁を見学してきました

先日最高裁に行ってきました。やっぱり、法曹を目指している者としては、最高裁はメッカでしょうw。と いうことで、今回は最高裁で見たこと、感じたことをレポートしてみたいと思います。

まず、見学するために最高裁のホームページにアクセスし、見学係に電話をかける。名前と職業、希望する見学の日時を伝えるだけでオーケーでした。なんか見 学はほぼ毎日やっているそうです。というか、日本の公共機関(司法のみ?)の多くはけっこーオープンですよね。台湾はなかなか見学できるところがそう多く はないのですよ。

つぎに、最高裁の所在地である永田町に地下鉄で行くのですが、やっぱり日本の中枢だけあって、永田町には警察や警備員さんがうじゃうじゃいますね。台湾 だったらこれにライフル持った憲兵や私服警察が混じっているところでしょうか。

さて、最高裁の建物ですが、見たとおりゴツイし、デカイです。まあ、写真を一枚とって集合場所に向かいます。

集合場所では係の人に名前を伝えます。自分以外に何名か見学の人が来ていました。うち1組が若いカップルで、後は何人か中年の社会人。

集合時間になりましたので中に入ります。入口に入って荷物をロッカーにおいてから小さなビデオルームに向かいました。そこで裁判員制度についてのビデオ と、案内の方からの最高裁についての基本的な説明や注意事項を聴きました。

その後、今回の見学の目玉である大法廷へと向かいます。途中、奥行きの深い巨大なホールにさしかかりました。各法廷に向かうにはこの通路使わないといけな いそうです。とても広く、天井も高いのですが、自分たち以外に人はおらず、静かで殺風景でもありました。まあ、ここが人でいっぱいになるときは何か良くな いことが起きた時ぐらいでしょうが。

とはいっても、この大ホール、かなり装飾が施されていてきれいです。いくつかの銅像もおかれてますし。あの有名なテーミス像(ギリシャ神話における正義の 女神)もあります。なんか、どの裁判所にも置かれているそうですが、最高裁のテーミス像だけは他と違って目隠し(己の良心にのみ従うという意味)をつけて いないそうです。なぜでしょうね。目隠ししなくても惑わされることはないという自信の表れでしょうか?

そういえば、この最高裁、建物の外観といい、この大ホールといい、全体としてなんか、荘厳な雰囲気を醸し出している気がします。やはり、法の番人だけあっ て、裁判という機能的側面だけでなく、司法を代表するという象徴的な役割も担っているのでしょう。

ようやくですが、大法廷につきました。いやぁ、やはり写真とかでも見られるように、15人の判事が座る席が並べられているのは壮観です。ここも先ほどの大 ホールのように天井が高く、自然の光を採り入れる設計になっています。とはいえ、以前写真でみたほど法廷自体は広くはないように感じられました。もっと も、これでも日本一大きい法廷だそうなのですが。

自分たち見学者は傍聴席に座ることができました。大法廷で裁判がおこなわれることは少なく、傍聴の機会も稀なだけに、これは結構感動モノでした。席に座っ ていると、ふとなぜか教会に行ったことを思い出しました。そういえば、裁判って儀式的側面が多いですよね。なんかまるで法という神を崇拝しているような。 法こそが現代における宗教なのかもしれません。これなしには社会生活なんか送れないでしょう。

まあ、以上で見学は終わりました。ざっと一時間ほどでしょうか。まあ、建物ぐらいしか見れませんでしたが、司法について自分なりにいろいろと考えされられ るよい機会にもなりました。