2009年9月16日水曜日

改めて、このブログのポリシーについて

目標と目的の違いは何であろうか。簡単に解釈すれば、目的とは最終的な達成を目指すゴールであり、目標は目的に近づくための指針、いわば中途地点にしか過ぎない。この違いを私たちは常に肝に銘じておかなければならない。


では、以上のこととこのブログには一体何の関係があるのだろうか。

このブログのタイトルの下にある少々突飛な説明を読めば理解できるだろうが、本ブログでは、小生が大学生活を過ごす中で気付いたこと・考えたことや、体験したことなどが記述の中心となっている。見ての通り、現時点では他のブログやコミュニティーサイトで発表してきたものの移植がメインだが、長期的には小生が己に課した目標と目的に沿って発表していきたいと思う。つまり、小生がいかにして目標に近づき、目的を達成したかということをこのブログの中で記録したいのである。

そして、小生が大学在学中に成し遂げたいこと(目的)とは、己を自信・責任感・独立精神に満ちた人間に鍛え上げることであり、そのためには:
  1.  異文化としての日本伝統文化を体得し
  2. 知的構えとしての教養を身につけ
  3. 常識としての社会的マナーをもつ
 という3つの目標を達成することが肝要だと小生は信じている次第である。



さて、さも偉そうなことを言い並べてみたが、結局のところこれは平凡な一大学生が記す大学生活記であるし、それが素直な解釈の仕方だろう。それでも、上記に記した小生の目標と目的は真実であり、それを実現するためにも多くの方々の応援と批判がほしい。今後とも、どうぞよろしくお願いします。

2009年9月15日火曜日

靖国で逢おう!

今日、生まれて初めて靖国神社に行った。率直な感想としては、敷地が無駄にでかいこと、奉っているのが「英霊」であること以外は普通の神社と大して変ってはいなかった。

たが、参拝後赴いた遊就館で自分は「靖国らしさ」というものを感じた。この靖国神社附属の戦争資料館では、大和王朝から太平洋戦争までの日本の戦争史が、 図や模型、ときには実物やビデオなどのふんだんな資料を用いて概説されていた。そこで自分が気付いた・感じたことをいくつか羅列してみたい:


1.全体的に、日本という国(そして天皇制)がまるで古代から脈々と続いてきたともとれるような歴史説明をしている。

2.展覧の参観者には若者が多い。

3.明言はしていないものの、明治維新以降日本が行ってきた戦争(日清、日露、太平洋)を自衛戦争と定義している。

4.日本にとって不利な出来事(南京大虐殺、アジア諸国における日本軍の違法行為)は排除しながらも、太平洋戦争後のアジア諸国の独立をさも日本の功績であるかのような説明をしている。

5.全体的として、日本軍がどれだけすごかったか!ということをアピールしている(特に日露戦争のコーナーは必見)。見ていて気持ちがいい。


今回は祖父母とともに靖国を訪れたのだが、約2,30年前に一度来たことのある祖父によると、以前と展覧の仕方が違うという。というのも、昔は、特攻隊の 遺品の展示ばかりだったのが、今では日本の戦争史を古代から追って説明しているという。祖父の言葉を借りると、このような変化は過去の戦争を今の世代に とってもわかりやすくする試みとして評価できると同時に、「軍国主義のにおいがする」らしい。

祖父の見解に関しては自分も同意できる。確かに、ナショナリズム自体は大いに結構だが、自分に都合のよいように歴史を解釈し、過去の事実をも捻じ曲げてまでそれを高揚しようとするのは、日本の未来世代にとっても決して望ましいことではないのだろう。

しかし、現在の靖国神社が私的宗教施設であることを踏まえると、靖国なりに独自の歴史観を有するのは特に問題ではないし、実際それが必要なのだろう。なぜ なら、戦争を肯定し、正当化しなければ、旧日本軍の戦没者は全員無駄死にしたことになってしまうからだ。これは靖国神社の存在意義を否定することになるだ けでなく、戦没者遺族にとっても認めがたいことであろう。

ここに靖国神社の限界がある。即ち、靖国神社だけに日本の戦争史の解釈を任せると、立場上どうしても偏ったものになってしまうのだ。そのため、太平洋戦争 という敏感なトピックを扱うには、国家による公式の歴史評価が先立って必要になってくるのだろう。少なくとも、靖国神社に行くときは、前述したような「偏 り」に注意したほうがよいだろう。

ちなみに、遊就館附属の喫茶店内で食べた海軍カレーは美味しかったのであしからず。

パンキョーの意義

先日大学で自分が履修した一般教養の成績をネット上で見た。ほとんど90点代、「優」のオンパレードだった。これは自慢にはならない。周りの友達も大概そうだったのだ。

どの学部に所属しているかにもよるだろうが、京大ではパンキョ-の単位は1回生のうちに大体とれてしまう。まじめな人では前期の終りには外国語や専門以外 ならほぼ揃えてしまうらしい。その後、ごく少数の例外を除いて学生たちは専門科目に飲み込まれていくし、パンキョ-との縁は当然なくなる。よって、パン キョ-が軽視されるのは必然的なことだし、卒業単位を揃えるためだけに仕方がなく楽勝科目ばかり取りまくるまたしょうがないことなのだろう。

だが、以下のアンケートを見てみたい。
http://www.kyoto-u.ac.jp/kikaku/tenken3/01/02shou.pdf

このアンケートは、社会に出た京大のOB・OGからみた京大の教育の評価に関するものであるが、京大自身が作成したものであることを考慮したとしても、先輩たちの本音ベースの批判・評価が聞こえてなかなか面白い。

とくに意外なのは、このアンケートのなかで一般教養科目の授業は卒業生たちからおおむね好評価を受けているということだ。やはり、社会に出ると専門的教養 以外にもより幅広い一般教養が求められるらしく、パンキョ-で学んだことがそこに活かせるらしい。また、教養は時間の豊富な学生時代じゃないと涵養できな いとも言いきっている。

このように、いかに楽勝でもパンキョ-は何らかの形で役に立つらしい。もちろん、「教養」というものの定義自体難しいし、授業をとっただけで体得できるものではきっとないのだろう。だが、少なくとも、今までよりもう少しまじめにパンキョ-の科目を学ぶ必要があるようだ。

さあ、単位のためではなく、自分をよりよくするために一般教養を学ぼう。無駄なものなんて何一つないのだ。

お金は人間が生み出した非常に便利な道具の一つだが、それは同時に凶器になりうるものであった。人は金のためには家族や親友だって裏切る。金欲しさのために無実無関係の人を殺める場合すらある。さらには、お金がないが為に他人どころか自分すら救えないことがある。

こうしたことを踏まえると、お金は恐ろしいものだ。だが、真におぞましいのはそれを発明し、用いる人間自体である。お金という道具でしかないものに、自分の下劣な欲望を現出させておきながら、その責任を無色無意味な道具になすりつける。

もしお金に人格があるとしたら、私たち現代人をどう見るだろうか?お金の発明以来、我々の人間性に少しでも進歩の兆しは見えただろうか?お金を真に高崇な目的(それが何であれ)のために用いる人はいるのだろうか?お金の答えが聴きたい。

好きなお金、嫌いなお金

この世にお金を嫌う人はいるのだろうか?もし嫌いだという人がいたら、その人はうそをついているか、酔っ払っているのだろう。だが、僕は今日生まれて初めてお金に嫌悪感を感じたのだ。

今日、僕は寮の月間会計監査を担当した。学生の住む寮だ、大したお金はないだろうとタカをくくっていた。だが、それは間違っていた。何枚諭吉を数えたのか はもう忘れた。帳簿にある金額に間違いはないか延々と試算した。計算機がぶっ壊れた。指導してくれるはずの先輩はそこにはおらず、たった一人でやった。疲 れた。朝から始めて気付いたらもう日が暮れてしまっていた。

お金を数えるのは爽快だろう。もしそれが自分のであるならば。だが、そこに何百万の札束があったとしても、自分のものでないし、ものにすることもできない金を延々と数え続けるのは至上の苦痛なのだ。会計士の仕事の大変さがわかったような気がした。

~現実逃避:新書からマンガへ~

大学に潜ってはや2カ月が過ぎた。今のことろ、教科書以外まともな新書を一冊すら読み終えたことはない。帰国生受験していたころは週2冊のペースで読んでいたのに・・・

新書の読書量の減少に反比例して、むしろマンガを読むことが増えてきたように思う。この頃マンガの良さを実感している。絵と会話だけだからパパっと読めるし、あまり頭を使わなくていいので楽でもある。

一方、真によいとされる新書や小説は少々頭にキツイ。厳しい、残酷な現実を直視させられる。難解な問題を突き付けられ、その解決を迫ってくる。自分はいか にあるべきか、何をすべきかを考えさせられる。そのたびに、自分は己の無力さと軟弱さを痛感させられるのだ。友達が勧めてくれた阿部公房の小説を読んで特 にこれを実感した。

だけど、将来大学という保護膜から離れ、社会に出れば、こうした厳しい現実を日々痛感させられることとなるのだろう。そうであるなら、大学生である今のう ちに、己を鍛えたほうが望ましいのかもしれない。鉄は早いうちに打つべきなであり、良薬は口苦しなのだ。みんな本を読みましょう!

ムカつく大人

日本の大人の中には「最近の若者は・・・」とか「昔はよかった・・・」というようなことをいう者がたまにいる。このような大人を私はあまり好きになれな い。なぜなら、彼らは自分も昔は自分が批判する「最近の若者」と同じだったということをきれいさっぱり忘れているからだ。しかも、たとえ若者に対する批判 が妥当だったとしても、そのような風に若者たちを形成したのが自分たち大人社会であることも理解していないのである。

言い換えれば、昨今の若年労働者の貧困問題からみてもわかるように、大人の多くは若者を批判することは得意でも、若者に対する自分たちの責任を自覚するこ とには不得手である。しかも、次の世代とその社会をめちゃくちゃにしておきながら、そうした問題を自分たちの世代で解決しようとはせずに日ごろ自分たちが 批判してるはずの若者に先送りし、自分たちの老後の安泰は彼らを犠牲にしてちゃっかり確保しているのだ(国民年金)。大人たちが真に未来世代の幸福を願っ ているのかははなはだ疑問である。

このように、大人たちは若者に対する義務を放棄しながら、その権利を享受しているのだ(もちろん、大人の中にも尊敬にも値する者がいることは忘れてはならない)。

こんなダメな大人には絶対になりたくないものである。が、私もその一員になっていくのだろう。大人世代と子供世代に横たわる抑圧の応酬はいつまで続くのだろうか?

社会的手錠

先日生まれて初めて大阪に行った。しかも生まれて初めて大阪の電車、それも満員電車に乗った。ツナ缶のようにぎゅうぎゅうにもまれながら気付いたのだが、 周りの男性の多くはつり革に両手をぶら下げているのだ。滑稽にもそれはまるで手錠を科せられながら万歳ポーズをしているみたいであり、私は笑いを抑えきれ なかった。

しかし、それと同時に少なくとも電車内では日本の男はかわいそうな存在であるということを発見してしまった。なぜなら、満員電車の中で万歳ポーズをしない 男は痴漢とされ、手錠をはめられてしまうからだ。そうならないためにつり革に手をぶら下げるのだが、それは無罪を証明するために手錠をはめているようにも 見える。結局のところ、手錠ははめないといけないもののようだ。

帰国生の英語力

一般生に比べて帰国生が大きく優っている点のひとつに、英語力(外国語力)が挙げられる。だが、そこで問題になるのは、私たちの英語力の程度を客観的に評 価する数値がないことだ。もちろん、IBやSAT、TOEFLなどの統一試験の成績は有用だ。しかし、それらは大学入試には使えても、将来のインターン シップ・就職や留学、さらには彼女や友達に自慢するとき(?)には使えないのではないだろか。そうなると、やはり私たちもTOEICやその他の外国語検定 をとる必要があり、有効期限の問題がない限りそれはできれば大学時代に早めに取っておくことが望ましいのではないだろうか?

今のところ、自分としては、ケンブリッジ英検やC.TEST(中国語検定)を試してみようと考えているのだが、帰国生のみんなはどうだろうか?

ごめんなさい!

今週の金曜日、私が新しく入った農業環境系サークルの新歓ゼミがあり、当然私も参加させていただいた。そこでは、日本の食糧自給率の低さに触れ、今までの 肉食中心的な食生活を改め、ゴハンや野菜をもっと食べるようにすれば、需要も高まり、自給率が向上する(もっとも、自給率自体いろいろな計算の仕方がある のだが)という結論に至った。

問題はそのゼミが終わってメンバー(指導の先生と何人かの男子)一同で近くの店に遅い夕食を食べに行ったときのことだ。ちょうど少し前に「お米や野菜を食 べよう!」と結論付けたにもかかわらず、なんと先生を除いたほとんど全員が豚生姜焼き定食(肉!)を注文し、さらには馬刺しやクジラ肉など、肉グルメに対 する熱い思いを語り合って大いに盛り上がってしまったのだ。そして、その話の輪の中心人物に私がいたのだ。

以上のことから私が導き出した結論:
1.なんだかんだ言っても、やはり肉は美味しい。
2.だから、日本の食糧自給率を向上させるのはムリ!?
3.肉について熱く語ってしまってごめんなさい。

せめてもの救いは、みなご飯の大盛りを注文したことか・・・

しょーもないこと


またしょーもないことをやってしまった。が、これは大学生という身分を持っているからこそ許される行為なのだ!
(注:立て看板の手前にある青い自転車は僕のです)

東大生諸君!

私が在籍している京大では、先生方がよく授業中に東大生を引き合いに出して、京大生とその特性を「比較」(東大生を批判)することがある。(例:東大生= 優秀だがつまらん、京大生=おもろい…など)そこでふと疑問に思ったのだが、東大でも京大生と比較したりすることはあるのだろうか?僕が妄想するに、東大 生はそんなもん気にせずわが道を行くという印象なのだが、実際はどうなのだろう?

大学は出会い系?

私が思うに、大学に通うのは勉強するためではない。大学が持つ最大の財産はその「人間」だ。つまり、勉強や研究という名のもとに多種多彩で個性豊かな学 生、教授その他もろもろの人々が集い、お互いを発見して人脈を深め、自己の発展を促すのが日本の大学が果たしている役割なのではないだろうか。少なくと も、私は勉強以外にも、教授に積極的に質問して顔を覚えてもらったり、大学で開催されているいろんな講演会、サークルなどに顔を出し、少しでも交友の輪を 広げようとすることに努めており、その点で私は大学を非常に便利な道具として利用している。

寮生活

大学に入学してかれこれ1カ月が過ぎようとしている。生活がようやく落ち着いてきたので今私が住んでいる学生寮について思いを巡らせてみた。

私が見た限り、寮における共同生活はとても有意義である。第一に、学部・学年を超えた人間関係を作れる。人脈の広さが死活を決定する大学生活においてこれは当然重要であろう。

第二としては、たくさんの個性的な(あるいはその度を超える)先輩がおり、一人ではやろうとは思わなかった楽しいバカ騒ぎができるし、悩みがあってもすぐに相談できる。新天地でまだ右も左も新入生にとってこれほど心強いものはない。

そして最後に、物質的なものだが、寮には生活に必要な基本家具(勉強机、ベッド、冷蔵庫など)はすべてそろっており、また下宿費も格安で済む。あまり金銭的に余裕がない学生にってこれは助かるだろう。

もちろん、学生寮での生活に欠点がないわけではない。たとえば、部屋は端的に言って清潔だとは言い難いし、相部屋での生活にプライバシーというものはほぼ無に等しいように思える。

しかし、それでなお寮生活が持つ利点はそうした欠点をカバーしうると私は思う(当然人にもよるだろう)。少なくとも、私は現在の生活にかなり満足しているのだ。

憲法9条の考え方

日本国憲法第9条はその制定以来長らくその是非が争われてきたものである。そして、近年ではこの条項を含めた憲法全体を改正するというという方向に向かっ ているように思われる(少なくとも、RTNでは改憲派が流行り?のようだ)。では、そもそも憲法9条の当初の趣旨とは何だったのだろうか。

日本国憲法は一般に「平和憲法」であるといわれるが、その根底をなしているのが戦争と軍備の放棄を謳った第9条である。私が思うに、9条が制定された背景 には、日本が軍隊を持つこと=戦争につながる+平和を脅かすという考えがあったように思われる。確かに、戦前の日本政府は好戦的な軍部の暴走を抑えられ ず、日中戦争と太平洋戦争の泥沼にずるずると巻き込まれてしまった感がある。これを踏まえると、政府のシビリアンコントロールに期待する以前に、軍隊を持 たないことを(解釈に関する議論は別とする)憲法で明記して歯止めをかけるは確かに地域の平和につながると言えるのだろう。

しかし、グローバル化で一地域の紛争が容易に世界に飛び火し、かつお隣さんが軍事力を年々増加させている今日、憲法9条に守られて長らく自衛隊の地位をあ いまいして自他ともに欺き、戦争と平和について考えることを怠ってきた日本はまさに格好のターゲットである。しかも、たとえ今の日本が前述した点で軍事的 に弱小で自ら侵略戦争などできないとしても、その弱さが強国の侵略を促す。そのため、今の日本もその弱さがゆえに平和に対して脅威的だといえるのだ。

これを解決するためには、日本は「強い国」になるべきだと思う。これは侵略する強い国ではなく、自らを守ることで平和に寄与しうる強い国である。これを実 現するためにこそ憲法9条の改定が正当化されうるのではないだろうか。9条を改定して軍隊の存在を明記する一方、シビリアンコントロールなどに関する諸法 律の整備を急ぐことが今後の日本にとって望ましい方向だと私は考えるのだ。

(もっとも、「100年に一度」の金融危機でケンポ-どころではないだろうがwww)

無知は罪なのか?

「無知は罪」ということわざがある。ここでいう「無知」とはつまり、ある物事(たとえば日本社会)の利点や欠点を含めた理解が不十分であるであるというこ とだろう。そして、それが「罪」に値するのは、そうした物事に潜む問題を改善し、よりよくしていくということを無知が妨げてしまうからなのだろう。確か に、どんな行動を起こすにも情報は必要であるし、問題を改善しなければ人間社会の進歩もまたあり得ない(進歩の定義や、その是非は別とする)。

しかし、果たして本当に「無知は罪」なのだろうか?確かに、社会全体の進歩という観点からすればこのことわざはあっているかもしれない。しかし、個人の観点からみれば、無知はむしろ善なのではないだろうか。

たとえば、私は今まで帰国の大学受験に際していやというほど日本社会が持つ問題点(雇用、教育、社会福祉…)について学んできた。その結果、私には常に物 事を批判的に見るという悪習慣が身についてしまい、日本社会の「問題点」を発見するたびに不快感を感じてしまうようになった。もし私が日本社会のあり方に ついて学んでなければ、身の回りのすべてを当たり前のものとして無邪気に過ごすことができたであるはずなのだ。しかも、今の私には不快に感じる日本社会を 変える力はないし、今後もそうした力は身に付かないかもしれないのだ。

そうすると、私にできるのは、自分の感性を変える(今あるすべてをあるがままとして受け入れる)か、日本から亡命するしかない。いずれをとるにせよ、私は大損である。よって、個人という観点からすれば、知識を持つことこそが罪で、無知であることこそがよいことなのだ。
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…以上が私が理屈で考えてみた結果であるが、自分自身としてもどうもしっくりいかない。だが、これをどう論理的に論破していけばいいのかもまたわからないのである。

レディーファーストは差別?

以前どこかの本で読んだことがあるのだが、欧米でよく見られるような男性が妻やガールフレンドのために車のドアを開けてあげるレディーファースト的動作に は、女性が「男性を頼りにしないと生きていけないひ弱い存在」だということを示す意味を持っていたそうだ。となると、男女平等の今日においては、レディー ファーストは女性差別に当たるのだろうか。もしそうだとすると、「車のドアくらい自分で開けろ!」といってあげるのが女性に対する尊重を示す正しい方法と いうことになるのだろうか。

自由の学風

私が通っている大学は、「自由の学風」を誇りにしている。ここでいう「自由」の定義はあいまいだが、私のある先輩いわく「勉強したい奴は勝手に勉強でき、 遊びたい奴は勝手に遊べる」ということなのだそうだ。こうした発想は、何も私の大学に限らず、日本でトップといわれる他の国立大学でも共有されているらし い。

たしかに、この考えにも一理はある。しかし、今の日本の大学生のうち、いったいどれくらいの人がここで与えられる自由を享受できる能力と知識を有している のだろうか(少なくとも、私は自分がこの自由をうまく活用できるかが不安だ)。もし大多数の大学生にそうした能力と知識がないとすると、大学において与え られる「自由」は、学生にって害になりうるのかもしれないのだ。

そうなると、大学には学生をもう少し「子ども扱い」し、これから与えられるであろう自由を学生たちがうまく扱えるよう積極的に教育・啓発していくことが求められるのではないだろうか。

おもろい授業

私が履修している一般教養の科目の一つに<政治学入門>がある。先生がとっても面白く、ギャグや時事ネタ、教科書にはない興味深い話などを交えて、熱ーい 授業を行ってくれるのだ。私はそれまで政治学のことを、日本のえげつない政治の闘争のようなものばかりを研究するつまらん学問だと誤解していたが、この授 業を通じて、政治学とは、組織や群衆、そして人間の心理と行動様式について学ぶ学問だということを発見した。皆さんの学校にこのようなおもろい授業はあり ますか?是非とも教えてください!



余談ですが、この授業で使っている「初めて出会う政治学」(有斐閣アルマ)はその内容は深いながらも軽いノリで書かれており、新書感覚でサクサク読めます。この本を読んだことのない皆さん、機会があれば一度読んでみてはいかがでしょうか。

大学生の制服

先日、スポーツ実習に必要なキャップを買いに近くの帽子屋を訪れた。私は買い物しながらそこの店主さんと雑談したのだが、その店主さんの前の代までその帽 子屋は京大生用の制服を作っていたのだそうだ。大学生も制服を着る時代があったのだと私はそこで初めて知った。もちろん今の大学生はほとんどみんな私服だ が、私が見るにその多く(特に男子)は皆ジーンズに長袖という「制服」を着ているようだ。そして私も今「制服」を着て授業に出ているのである。

ブロック会議

昨日ブロック会議があった。私が生息する学生寮では学生による自治がおこなわれており、定期的にこうしたミーティングを通じて寮で起きる問題や議題などを 処理する必要があるのだ。私もこうした会議に参加するのは二回目になるが、毎回会議の中で飛び交う辛辣かつ要点を突いた発言や議論には圧倒されるばかりで ある。しかも毎回最終的には多数決を通じて是非が決められるのだ。これこそまさに直接民主主義の良い事例ではないだろうか。私は少し感激してしまった。