裁判員制度が施行されてもうすぐ1年になる。裁判に参加した一般市民からの評価はおおむね良好な一方、それに対する批判も依然根強い。多くの場合、批判者 は現行制度(の不備)が真実の追究や法の安定性を脅かすことを危惧している。しかし、肝心の当事者である市民が公正さよりも報復による被害者の感情回復を 優先するというのであれば、それはそれで何の問題もない。
――――――――――――――――――――――――――
今日の独り言:
以上のように、極論を述べてみましたが、実際のところ裁判員制度は論点も多いし、なかなか評価し難いですよね。
とはいえ、自分も理想としては、裁判員制度を維持しつつ、不備を改善してより良い制度にすべきだと思います。まあ、あくまでただの理想論に過ぎませんが。
そういえば、法治主義って、民主主義と対立しますよね。後者は手続きが公正であれば良いとするのに対して、前者は結果の正当性も重視する。つまり、極論で 言えば、民主主義は多数決による無実の人間の殺害を容認するのに対し、法治主義は道徳や倫理云々に基づきそれを否定する。これを踏まえると、民主主義は手 続きのあり方という面においては科学主義的、功利主義的(感情を含まない)なのに対し、法治主義は道徳や倫理、そしてそれらを生み出す感情や価値観に根ざ したもの(人間臭い!)であるといえますよね。
無駄話はここまでにします。さて、上記に述べたように、素人である裁判員が裁判に参加することで、裁判が加害者への一方的な報復の場と化してしまう危険性 が、批判として前々から指摘されています。もしそれが事実でないのならなんら問題はありませんが、それが仮に事実であったとしても、それもなんら問題ない のではないかと、最近そう思い始めています。
というのも、例えそこから害が生じたとしても、それをこうむるのは、報復を容認した当の市民自身だからです(被害を受ける無辜の人にとってはたまったもん ではないでしょうが)。そうなって初めて人々は反省するだろうし、そこから裁判員制度を廃止するなり改正するなりすればよいのです。
もちろん、被害を受ける人は常に少数にとどまり、よっていつまでたっても改正の方向に向かわない危険性は存在します。そうなれば、少数者が被害をこうむる 構造が永久に温存されてしまいます。だからこそこのような状況の発生を事前に防ぐ(現段階における裁判員制度の廃止・改正)必要があります。これは、少数 者が害をこうむる状況を非とする価値観に基づいています。それが法治主義につながるわけですが、ここに法治主義が持つもう一つの側面、すなわち貴族(エ リート)主義やパターナリズムが表れているような気がします。
いろいろ脱線したり、論理性のない議論を展開しましたが、結局のところ、自分で冒頭に上げた主張を否定する結果になったようです。ww頭が混乱する~~


0 件のコメント:
コメントを投稿