2009年9月15日火曜日

パンキョーの意義

先日大学で自分が履修した一般教養の成績をネット上で見た。ほとんど90点代、「優」のオンパレードだった。これは自慢にはならない。周りの友達も大概そうだったのだ。

どの学部に所属しているかにもよるだろうが、京大ではパンキョ-の単位は1回生のうちに大体とれてしまう。まじめな人では前期の終りには外国語や専門以外 ならほぼ揃えてしまうらしい。その後、ごく少数の例外を除いて学生たちは専門科目に飲み込まれていくし、パンキョ-との縁は当然なくなる。よって、パン キョ-が軽視されるのは必然的なことだし、卒業単位を揃えるためだけに仕方がなく楽勝科目ばかり取りまくるまたしょうがないことなのだろう。

だが、以下のアンケートを見てみたい。
http://www.kyoto-u.ac.jp/kikaku/tenken3/01/02shou.pdf

このアンケートは、社会に出た京大のOB・OGからみた京大の教育の評価に関するものであるが、京大自身が作成したものであることを考慮したとしても、先輩たちの本音ベースの批判・評価が聞こえてなかなか面白い。

とくに意外なのは、このアンケートのなかで一般教養科目の授業は卒業生たちからおおむね好評価を受けているということだ。やはり、社会に出ると専門的教養 以外にもより幅広い一般教養が求められるらしく、パンキョ-で学んだことがそこに活かせるらしい。また、教養は時間の豊富な学生時代じゃないと涵養できな いとも言いきっている。

このように、いかに楽勝でもパンキョ-は何らかの形で役に立つらしい。もちろん、「教養」というものの定義自体難しいし、授業をとっただけで体得できるものではきっとないのだろう。だが、少なくとも、今までよりもう少しまじめにパンキョ-の科目を学ぶ必要があるようだ。

さあ、単位のためではなく、自分をよりよくするために一般教養を学ぼう。無駄なものなんて何一つないのだ。

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